『THE CATCHER IN THE RYE』の二つの翻訳。野崎孝訳、村上春樹訳の違いを、ショーツという単語の訳し方から考えた。

きっかけは、電車の中で半ソデ、短パンの人を見たからです。毎年ゴールデンウイークの頃から薄着になる人が増えてきます。

その先頭を切って半ソデ短パンになるのが白人の男たち、という見方を私はしています。日本人の大半がジャケットやスプリングコートを羽織っているのに、白人は夏まっしぐら。筋肉量が多いので、暑く感じるのだろうか。

そういえば、J・D・サリンジャーの小説『THE CATCHER IN THE RYE』の中にいつも短パンを履いている男を描写した箇所があったな、と電車の短パン白人を見て思い出したのです。

その男とは主人公ホールデン少年が、ほのかな想いを抱いている女の子ジェーンの義理の父親。

この男がホールデンいわく「いつでも半ズボンをはいていた」(『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳)。
ところが村上春樹訳では「いつもパンツ一枚なんだ」『キャッチャーテン・イン・ザ・ライ』となる。

で、原文はどうかというと「He wore shorts all the time」なんです。
shortsを半ズボンとするか、パンツ一枚とするかでは大違いの展開となる。その差は「性的に危険」か「ほのぼの路線」か、なんですよ。

それで私は辞書で調べてみると、shortsという単語は「半ズボン」「パンツ」のどちらにも訳せるんですね。

そしてその男は「しょっちゅう飲んだくれて」いて「家ん中で駆けずり回ってんだ、裸で」(野崎訳)に対し、村上訳では「いつも飲んだくれて~中略~で、裸同然の姿で家の中をほっつきまわるんだ」となります。

ここの訳で私がとっても気になったのは、すっ裸なのかパンツ一枚の裸同然なのか、という点です。原文ではただ「naked」となっているようにしか私には読み取れません。

つまり野崎孝の訳だと「義理の父親はいつでも半ズボン(たぶん家の外)、しかし家ん中では裸」。
村上春樹訳だと「義理の父親はいつもパンツ一枚、裸同然の姿、家の中でも外でも」のようです。

ここから私なりに深読みしてみると、野崎訳の父親は、外に出る時は一応半ズボンをはく、たぶんポロシャツなんかも着るのでしょう。そして帰宅するとすっぽんぽんになる。

では村上訳はというと、家の中でも外でもパンツいっちょう、ということになる。でもboozeだから顔を赤くして酒臭い息をはきながらパンツ一枚で徘徊していても、隣近所は「また、あの酔っ払いが来たよ」と苦い顔で見逃してくれる、のではないか。
だから村上訳では、その男は重度のアルコール依存症であることを強調したいのかな、と思えてしまう。それで家の外でも中でもパンツ一枚、まるで『おそ松くん』に出てくるデカパンなのだ。
でも体型はskinnyとあるから痩せたデカパンオジサン?

ひるがえって野崎孝訳では同じくアルコール依存症でも、村上訳ほど重度ではない。なぜなら外出する時は半ズボンをはくのです。なのに家の中ではすっ裸。ジェーンという若い女の子がいるのに、股間をブラブラさせて歩き回っている。しかもジェーンは義理の娘。ここで俄然、性的な危うさがさしてくるのです。

ちょっと話は変わりますが、ハリウッドの映画です。
それぞれの親が離婚して、それぞれの子供を伴って家庭を形成している、という設定をよく観るような気がします。当然、義理の父と娘、血のつながらない関係というのが発生するわけです。それが一つ屋根の下で暮らしている。 だから何だ、とアナタは言うでしょう。
では単刀直入に言います。そこに性的な匂いを嗅ぎつける、ということはないでしょうか。
アメリカのポルノでは、こうした設定が多々見られます。

さて性的な匂いを嗅ぎつけたのは私だけではありません。その話を聞き流していた主人公の同部屋の少年もnakedと聞きつけ、俄然興味を示すのです。
その少年がナルシストの脳みそ筋肉男であることを、ホールデン少年の説明で私たち読者は刷り込み済み。
裸の男、若い女と聞いて眼をランランとさせたナル筋少年を野崎訳では「全く助平な男なんだ」とし、村上訳では「頭の中にはセックスのことしかないんだよ」としています。
それで原文はというと「a very sexy bastard」。
sexyというのが、助平とか頭の中はセックスだらけ、と訳せるのは初めて知りました。
ならこの私もセクシーな男というわけです。

サリンジャーの洋書はこちらThe Catcher in the Rye
野崎孝訳ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
村上春樹訳キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

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